1月16日付の朝日新聞の社説には驚いた。
あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」に登場したような「芸術作品」を、公的に支援するように求める内容だったからだ。
「表現の不自由展」が強い批判にさられているのは、朝日新聞が言うような「芸術に政治論争や社会問題を持ち込むべきではない」という考え方からではない。
政治論争や社会問題を扱うやり方としても、許されるやり方と許されないやり方があるということを、朝日新聞は意図的に避けて、論点をずらしている。
自分の大切にするものであれ、他人が大切にするものであれ、どちらが傷つけられるのを見るとしても、普通の人には心が痛いものだ。
そういう多くの人の心に痛みが生まれるようなものの扱いは、慎重であるべきではないのかというのが、本来の論点だ。
確かにそういうものでも見たい人はいるのだろうし、それを「芸術」だと強弁するなら、そうだとしてもいい。
表現の自由とは、そういう一般には受け入れられない表現であっても、当人が行いたいのであるなら、私的に勝手に行う分には、国家権力の差し止めを受けることはないというものだ。
だが、大半の人に嫌悪感をもたらすものに公費を投入できるかどうかは、表現の自由とは別次元の問題だ。
一部の特殊な人しか楽しむことができず、大半の人が不快な思いをするようなものに、どうして公費を投入すべきということになるのだろうか。
朝日新聞は、特攻隊員を「間抜けな日本人」と揶揄することが、大半の人々に支持されることだと考えているのだろうか。
同様に天皇陛下の御真影を燃やし、土足で踏みつけるような行為が、大半の人々に支持されることだと、朝日新聞は考えているのだろうか。
だとしたら、朝日新聞は精神異常者の集まりだと言わなければならなくなる。
繰り返すが、自分の大切にするものだけでなく、他人が大切にするものであっても、傷つけられるのを見れば心が痛くなるというのが、普通の人のあり方だからだ。
朝日新聞は、朝日新聞で慰安婦記事を書いた植村氏の写真を燃やすような映像を、果たして公費を投入して支えるべき芸術だと認めるのだろうか。
事実と異なる記事を書き、日本の名誉を大いに傷つけた植村氏や朝日新聞のあり方を批判的に考えるのは、社会的には大いに意味のあることである。
それと絡む芸術作品を作り上げることも可能であろう。
それでも、植村氏の写真を燃やすような作品は、公費投入の対象とすべきではないだろう。
それは、仮に自分が否定したい人間であっても、その写真を燃やすような行為は、多くの人には決して心地よいものではないからだ。
だが、このような場合が起こった場合には、朝日新聞はそうした論点からこの問題を捉えるのではなく、声高に「人権」を振り回して、「ヘイト」だと叫ぶのであろう。
それは容易に想像がつく。
そのくせ、昭和天皇の御真影を燃やす映像は「芸術」だという扱いにし、「もっと予見なく、おおらかに、作品と向き合ってみたらどうだろう」などと軽口を叩くのだ。
朝日新聞のダブルスタンダードぶりには辟易とする。
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これの元ネタとなる朝日新聞の社説
https://www.asahi.com/articles/DA3S14328278.html
画像はyahooニュースの記事から
https://news.yahoo.co.jp/byline/taketosekiguchi/20191016-00147019/
https://rpr.c.yimg.jp/im_sigg5dT4tK_8zLTQUi3.1zOSKA—x800-n1/amd/20191016-00147019-roupeiro-000-9-view.jpg
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