中国人の漫画家の孫向文さんが書いた「中国人の僕は日本のアニメに救われた!」を読んだ。
普段慣れ親しんでいる日本的な価値観が、外部から見ると特殊なものなのだということは理解しているつもりだったが、まだまだ客観視できていない部分もあるんだなと感じた。
時代劇のチャンバラシーンでよく出てくる、「安心せい、峰打ちじゃ」とのセリフに不思議さを感じた孫向文さんの感覚は、自分には新鮮なものだった。日本の漫画の主人公は敵に対してやさしすぎるというのが中国人たちの一般的な意見であり、欧米でも単純な勧善懲悪が普通なのだそうだ。
敵とはそのまま悪であり、当然滅ぼされるべき対象なのだとみなすのが世界の標準なのであり、敵に対して情けをかけるような日本的なあり方は特殊なものなのだということに、改めて気付かされた思いがする。
こうした日本人的な意識の起源を「武士の情け」や「怨霊信仰」に求めるような形で孫向文さんは話を展開しているのだが、自分はもっと根源的な日本人の心にその起源を求めるべきものではないかと思う。
善悪の価値基準を持ち込む前の段階で、万物は存在するだけで尊重に値すると、日本人は考えてきたのではないか。例えば、足で扉を開けたりするような所作を行儀が悪いと見ている見方の中には、扉に対しても礼を持って接するべきというような、存在するものに対して無条件に尊重する心が根底にあるのではないか。
あるいは、自分という存在が決して大きなものではないという自覚が日本人にはあるという見方もできるかもしれない。
こうした日本的な美徳、日本的な精神のあり方が、戦後一貫して否定されてきて、日本人の中からもこうした美徳がどんどん失われてきているのは実に残念である。こういう精神性はむしろ世界の中で今後価値を高めていくべき見方なのではないかと思っている。
「日本は「ジェンダーギャップ指数2020」で153カ国中121位で遅れてる〜」みたいな表層的な見方は正しいのだろうか。万物を最初から尊重する日本的なあり方は、表層的なジェンダー論よりもはるかに先進的なものの見方なのではないだろうか。
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「中国人の僕は日本のアニメに救われた」の画像
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